青Pのひとり語り

麻倉ももを中心に自分の好きを語っています。

僕だけに見える星とトクベツ~麻倉もも27歳の誕生日~

 

どうも青Pです。

今年も麻倉ももさんのお誕生日に沿えて少し書いてみようかなと思っています

よければお付き合いください。もう誕生日から1か月近く過ぎたことに関しては深くお詫び申し上げます。

 

書く題材としては、麻倉ももの8thシングル『僕だけに見える星』について書いていこうかなと思っています。このシングルもらったものがすごく大きかったのですが、しっかりと思いを書けていなかったので、ここで書きたいなという次第です。

 

 

 

 

 

〇僕だけに見える星と今までの楽曲の違い

 
 僕だけに見える星

 僕だけに見える星の最大の魅力は、麻倉ももの繊細で、広がるようなボーカルの歌唱力にあると僕は考えています。ただ、麻倉もものアプローチの方法としては、この楽曲は他の楽曲と大きく異なることがインタビューからもわかります。

 

──麻倉さんの曲の歌詞には「君」というワードがよく登場しますが、従来のそれは少女マンガ的な世界における恋愛対象としての「君」でした。しかし「僕だけに見える星」の「君」は、必ずしもそうではない。

恋愛対象と捉えることもできるかもしれないけど、友達かもしれないし、友達じゃなくても大切な誰かかもしれない。聴く人によって見え方が変わるように意識して作りました。誰しも経験したことがあるような出来事だったり、見覚えのある情景だったりを通して、聴いてくれた人の心がちょっと温まるような、ふんわり寄り添える歌詞にしたかったんです。

私自身、歌詞に出てくる「君」に相当する人が思い浮かぶし、歌詞で描かれている物語に自分の経験を重ねることもできるんです。でも、それが前に出すぎるのはちょっと違うというか、聴く人それぞれに「君」の対象がいるわけじゃないですか。なので一歩引いて、第三者目線で物語を読み聞かせる感じで歌いました。

麻倉もも「僕だけに見える星」インタビュー 音楽ナタリーより抜粋

 

 これまで、恋愛曲でその物語の対象を明確にして表現をしてきた麻倉もも。しかし、今回は歌っている自分自身の対象をぼかして歌った楽曲。主人公を演じるという声優的な、演者的なアプローチしてきた麻倉ももにとっても新しい挑戦の1曲となりました。

 

 恋愛曲の中で、強烈な個性を発揮した麻倉もも、これまでとの大きな違いはこの曲には麻倉ももがほとんど存在しないことです。

 麻倉ももストーリーテラーとして、引き算のアプローチをした結果、この曲には麻倉ももという存在がいない。故にこの曲には歌った世界観を通して見えた「自分自身の感情」を引き出すような曲になっている。人それぞれの「君」が見えるような楽曲。 これまでと全く違うアプローチ、それなのに楽曲自体はすごく自然に聞くことができました。

 

 その理由は、麻倉ももが恋愛曲を歌ってきたから、そしてその中で背伸びをしない楽曲に挑戦したからだと思います。

 恋の歌というのは必ず対象がいて、対象への想いや自分自身の想いを届ける歌がほとんどです。だからこそ、1つ1つのフレーズやブレス、音のニュアンスにこだわる。だからこそ、ストーリーテラー的な歌い方の中で、物語に沿って感情が動いていく様子が歌唱の中で表現されている。

 

 明確な光景などは浮かばないながらも、この物語の主人公の感情は冒頭から揺れ動いて、最終的には決意みたいなものをもって走り出していく様子が描かれている。特に僕個人が好きなのは、Dメロ落ちサビの部分ですが、その表現は今まで麻倉ももが恋愛曲やみんなと楽しむ曲たちで、一人ひとりへ想う歌を歌ってきたからこそだと感じました。

 故に、これまでは物語の主人公の心情を真正面に届けてきて、まるで見守るように聞いていた曲たちとは違うけど、彼女の歌を聴いて自分の目の前に大切な景色が浮かんで、その想いに背中を押されているような気持ちになる。おそらく聞いた人の中で、必ず誰か大切な人や感情が思い浮かぶ人も多かったはずだ。

 そんなアプローチは新しく見えて、全く違うわけではない。おそらく恋愛曲を歌ってくる中で見えてきた彼女の音楽性の幅や強みみたいなものを生かした曲になっている。客観的に自分の歌声を聞けるようになったと語ることも増えてきましたが、そんな中で新しいアプローチをしながら、その自分をしっかり分析してボーカルに臨んでいるからこそできた歌い方なのかなと思いました。

  

 あしあと

 『僕だけに見える星』が広がるような景色、過去から今へ大切な気持ちに寄り添った歌なのに対して『あしあと』はもっともっと小さな自分の世界や視点で描いたひとりごと。

自分のことは自分が一番わからないので。あと、私もこの曲の主人公みたいに勝手に1人で落ち込んで、「まあいいや、明日明日」と勝手に1人で立ち直るタイプというか。あまり人に相談せずに、自己完結しちゃうことが多いんです。たぶん「僕だけに見える星」と同じように、誰しも一度はそういうことを考えた経験があるんじゃないかと思いますし、「あしあと」というなんでもない日常の物語を通して、またちょっと温かい気持ちになってもらいたいです。

 

 自分のことは自分が一番わからないってまさにその通りで、考えれば考えるほど、自分って何って考えちゃうことありますよね。そういう時って、自分なりの解決方法が人それぞれあると思います。これはそんな気持ちに寄り添った歌です。

 

──「あしあと」では、いつものように主人公になりきって歌ったんですか?
そうですね。主人公の女性像を思い浮かべて、完全にその子になりきって。今言ったように歌詞の内容に自分とリンクする部分もあるんですけど、やっぱり自分の物語としてではなく、あくまでその子の物語として歌いました。これはすべての曲に言えることなんですけど、「共感できるなあ」とか「私と似てるなあ」と思うことはあっても、自分に引き寄せて歌うことはあんまりないんですよね。

──そのうえで「主人公に共感できるわけではないけれど、『そういう恋もあるよね』と、その世界を歌うこと自体はすごく楽しい」と。だから主人公に共感できる / できないは、なりきりやすさとは関係ないんですかね。
ああー。あんまり頭で考えたことはなかったんですけど、「麻倉は絶対にあの子の気持ちにはなれないが、そういう気持ちになってしまう子がいるということは理解できる」とでも言えばいいんでしょうか……ちょっと話が違うかもしれないんですけど、よく人から「共感能力が高いね」とは言われるんですよ。例えばみんなが「そんなことありえない!」と思ってしまうような考え方とか心の動きでも「いや、あるかもしれない。私は違うけどね」みたいな。

 

 

 主人公によせることはない、あくまでその子の物語として歌っているというのは声優で歌手の麻倉ももさんならでは。シンガーソングライターなら、自分の今の感情だったりを吐き出すものだと思うがまったくもってその要素がないのだ。

 しかし、感情は寄せないと言いながらも、全くその部分がないとは言い切れないのと思う。だって、この僕だけに見える星も今麻倉もも自身が背中を押したいという思いを込めて選んだ曲であり、あしあとも麻倉もも自身が選んだ楽曲だからだ。

 

 最もフィーリングを感じた曲をチョイスする過程には、必ずしも彼女の感情がある。しかしながら歌唱するときには、その物語の世界や主人公像を表現する。非常に役者らしい彼女の音楽性が僕は好きだ。そして、その表現のおかげで、僕たち聞いてる側の人間は曲たちに居場所を作ることができる。この曲もまた僕自身の曲なんだなと感じた。

 

 どんな曲にあっても、こうですよというものを提示しないからこそ曲に

「今の日常の中での感情」を置くことができる。

その上で麻倉ももの楽曲には人を笑顔にさせる力がある。それがやっぱり変わることのない麻倉ももの楽曲の魅力だ。

  

 麻倉ももは『ハピネスピース』などで、小さな日常の幸せなものを歌った曲もありますけど、その成長版のような曲だと僕は思います。その中で、ウィスパーボイスの歌声など麻倉ももの魅力もつまっていて、イヤホンで聞くと、とても心地よく、まるでその女の子の風景が目の前に浮かんでくるようだ。無理に前を進むことはない、そのままで、それでいいじゃんって言ってくれる曲。

背中を押すことって、絶望から前へ進んだり、下を向いてたら上を向かせたりするだけじゃなくて、今の自分自身を肯定してあげることにあるんだなって最近は思います。

 

 「わたしらしさずっと探していた」

 「どんな言葉を選んでもちょっと違うんだよな」

 

 自分の感情やあり方の置き所がわからない、でもそうやって悩んだりすることも、毎日過ごしていることもその人にしかない日常であしあとなんだよなって。僕自身もこの「あしあと」を聞いて、麻倉ももの曲なんだろうなって思って考えていたけど、繰り返す聞くたびに、この曲も僕自身の曲で、僕だけに見える星で迷っている自分を認めてくれる曲なんだなって感じました。

 麻倉ももが好きな音楽のテイストみたいなものがぎゅっと詰まっている1枚で、恋愛曲以外での音楽性みたいなものが定まってきたシングルになったのかなと思いますし、これからどんどんこういう楽曲が増えていくと思うとすごく嬉しいなと感じます。

 

 

 

〇自分の物語のトクベツを探して

 「僕だけに見える星」を受け取って、自分は何を思ったのか考えたりしてたんですけこの曲は麻倉ももが与えるというよりも、自分自身が見つけないといけない曲たちだなと思った。

 

 コロナの状況下の中で、当たり前だった日常が変わって、変わった日常が当たり前になって。今まで普通だったことたちができなくなっていった。そんな中受け取ったこの曲で、いざ書こうと筆をとっても今まで代わり映えのないことしか書けない自分がいました。

 それは変わっていく日常の中で、今まで当たり前を普通だと受け入れない自分がいたのかもしれない。麻倉ももを通して今までの普遍的な日常ではないものたち、ライブや友人との出会い、ブログ、フラスタ、手紙、たくさんの今までにないものを表現し受け取ってきた。それはすべて麻倉ももが主語にあるからできたことたちで、それがなくなった時、麻倉ももを主語に置けなかったときに何もしなくなった自分は、空っぽの人間になってしまうのではないか。そんな気持ちがあった。

 

 僕はずっと麻倉ももの「隣にいる存在」でいたかった。そのためにいろんな言葉を投げたり、フラスタを贈ったりした。そのこと自体が、麻倉ももに会いに時に横に並びたいがための「目的」だったのかもしれない。手紙・フラスタ・ブログ、それは好きでやってきたことだけど、それが「麻倉もものために」という大義名分に沿った目的になっていた自分がいたことをちょっと考えるようになった。

 

 自分自身の麻倉ももを表現する、探す、答え合わせをする。そのことが楽しくて会いに行っていたとしたら、それを表現する言葉は「自分がトクベツ」でいたかったのだろうか、僕の中の麻倉ももを表現することがトクベツで、それが自分自身の存在意義にも繋がってるような感覚は少なからずあった。

 そんな手段ができなくなった今、自分自身のトクベツって何なのだろうと主語がないこの曲に出会ったときに見透かされたような気持ちになった。自分の中の麻倉ももを表現する、麻倉ももという主語に自分を置く小さな世界の中で、思い悩みながら僕は物語を書いていたのかもしれない。

 

 そんな中、2021年5月30日にホリミヤのイベントで麻倉ももさんに会う機会が訪れた。一緒に行ったのは、この2年で大切な友人になったオタクだった。運も良く、麻倉ももさんの正面に座った僕たちだったが、そんな僕たちを見つけたからなのかはわからないが、彼女は目が会うとすごく嬉しそうな表情をして笑った。その瞬間の感情はなんといっていいのかわからない。でも言えることは、僕は麻倉ももに、彼女に会うだけで自分は幸せだったんだなという感情だった。

 手紙を出したり、フラスタを贈ったり、曲に向かうこともないシンプルなアニメイベントだからこそ感じた、麻倉ももに会うことによる幸せ。それは間違いなく、麻倉ももにとっても同じなのではないかとその瞬間に思ったのだ。何よりも、自分は彼女の笑顔を見ることが一番の幸せだということを再確認した。

 

 じゃあこういうのを踏まえて、このアルバムで感じたことって〝恋〟から〝愛〟になるためには、言葉で愛を伝えないといけないと思うんですよ。恋は言葉にできないですけど、愛は言葉にできるものだと思うので、だからAgapanthusのアイを変えてみると。 〝大切な人へアイを言葉で伝えること〟だと思うんですよね、そしてその中でも  〝会って言葉を伝えること〟 はすごく麻倉さんにとっても大事なことなのこかなと思っています。単純にこれは僕が麻倉さんのファンでいる中で大切にしていることにもつながるとは思うんですが だからこのアルバムで、麻倉さんは聞いている人に向かって一種のラブレターみたいな形でみんなに言葉でアイを伝えてもらったと思っています。

 

 Agapanthusの言葉を受け取った時にこんな言葉を残していたが、今僕にはこの言葉が必要かもしれない。僕自身、会うだけで笑顔を見るだけで心が満たされるのは麻倉ももさん以外にはいない。

 そう言えるぐらいの存在が彼女だった。そもそも最初の感覚ってきっとこんな感覚で、会えるだけで嬉しかったのだ。いつしかそれだけじゃなくなってきて、いろんな活動して、また今の日常が普遍的なところに戻ったのかもしれない。意固地な自分の想いが解けていくようだった。

 

 そろそろ長々と書いてきたことを、まとめていかないといけない。

先日発売されたMy Girl vol33 そのインタビュー、その中で麻倉ももさんが語っていたことがあった。直接的な抜粋は控えるのですが

 

音楽もビジュアルも自分のやりたいことが思いつくようになって、自由度やふり幅が出せるようになった。自分自身の音楽性が安定してきているので、次は新しいことに挑戦したい。

ファンの人には自分が楽しんでいる姿をたくさん見せたい

                          ーMy Girl vol.33より引用 

  本当に嬉しかった。僕自身は彼女に麻倉ももの音楽を好きになってほしかったし、楽しいなって思うことをやってほしかった。だって、麻倉ももの好きな音楽性を僕は大好きだったから。

 僕が麻倉ももを表現してきたことの理由の根幹は

 

 〝麻倉ももに笑顔でいてほしい、麻倉ももをずっと好きでい続けてほしい〟

 

  だった。おそらくだけど、彼女にとって音楽は以前よりも日常的なものになり、今は表現を楽しいと思えるまでのものになった。僕自身は今までやってきたことが報われたような、救われたような気持ちになった。同時に、本当に麻倉ももに出会ってきて、これまでやってきたことは全部僕の人生の1ページでしかないことに気づいた、麻倉ももに笑顔でいてほしいこと、その目的は僕自身が笑顔になりたいからだった。

 

 フラスタを見たとき、ライブに行ったとき、手紙を書いているとき、彼女を通して出会った大切な人と出会うとき、僕は誰よりも幸福な感情を抱いていただろう。そんなことを思うと、急に幸せが溢れてくるようだった。彼女のために始めたことたちが僕の人生の1つ1つにたくさんの幸せな花を咲かせて、今も残り続けている。それは何よりもすべてが形になって残っているものだからだ、記憶だけじゃない形に残るものたちだからトクベツなのだろう。

 

 横に並んでいたかった、でも今は横に並ぶ必要はない、

 だってずっと横にい続けているから、お互いの人生を歩んでいる限り。

 だからずっとずっと伝え続けていきたい、僕の人生において麻倉ももに出会ったことでみつけたトクベツたちを。また、たくさんの形で僕の人生を伝えていきたいと思った。

 

 ただ、心持ちが変わっただけの1年だったのかもしれないけど、それはすごく大きな変化だったと感じている。これまでの5年、ずっと表現してきた「僕の中の麻倉ももの物語を描いてきた」これからは「僕が描く、僕自身の物語」を表現して、彼女を笑顔にし続けていきたい。その題材にあるのは、麻倉ももの音楽と歩みそのものの物語だ。

 

 これからの5年はとても楽しいものになるだろう、いつか麻倉ももに僕が直接

 

 麻倉ももに出会った人の中で、僕が1番幸せな人だって自慢できる

 

 そう言えるかっこいい男でいるために、これからもたくさんお花を、言葉を贈っていく。僕の人生に僕だけのトクベツな笑顔をたくさん咲かせられるようにこれからも僕は麻倉ももを好きでい続けることだろう。

 

 こうやって毎年自分自身を振り返ることを続けてきたことで、自分の立ち位置や人生みたいなものを見返した気持ちになっている。たかだか1人の人間のオタク活動でしかないものだけれど、僕にとっては本当に幸せな5年間だった。これから先5年も自分が幸せでいるために、この誕生日のブログを書き続けて生きたなーと思う。

 

                                    青P

 

 

 

 

 

僕だけに見える星

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あしあと

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natalie.mu

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